座禅 / Algernon Syn.

2015/09/02

9月、座禅を組んできます。

朝10時から、予約不要で無料。初座禅です。

理由はたくさんあるのですが、そもそも一度体験してみたかったので。

というわけで今日は座禅の予習。

そもそも座禅てなんなんでしょ?というお話からです。

 

「禅」自体は、日本で言う平安時代初期から平安時代中期に
中国で生まれた発想であるといわれています。

「禅」は、“思いにふける、瞑想”の意で、
それを「坐」して行われるため坐禅といいます。

俗に「禅宗」と呼ばれる宗派は、「だるま」のモチーフになった
人物である菩提達磨というインド僧を始祖としていますが、
最近になって歴史学的に菩提達磨の
実在性を疑う意見が提起され始めました。

実際にはおそらく、達磨から直接法を授かったとされる
「慧可」という中国僧と、その一派が現在風の
座禅のシステムを作り上げたといわれています。

この一派は俗に「山林学派」と呼ばれます。

中国の歴史が唐から宋に変わろうとする激動期に、
仏教弾圧が行われました。

寺院が焼かれ、大半の僧侶が還俗させられ、
中国仏教は崩壊寸前まで行ったといわれています。

その折に、弾圧を逃れ深い山奥に行った一派があります。

これが山林学派の由来ですね。

当然これらの僧侶たちも普段は経典を使った研鑽に
励んでいたのでしょうが、そういう「資料」は
この弾圧で全て失ってしまったといわれています。

そうやってすべてを失った僧侶たちがたどり着いた答えは
「教義」ではなく「実践」だった、ということなのでしょう。

山林学派の仏教者たちがたどりついた「実践」は、
静かに坐しながら自分の心の奥にある「真理」に
たどり着くという、釈迦自身が導き出したスタイルでした。

釈迦自身は、「苦行が流行」でした。

当時のインド社会の中で、ただ一人苦行を否定し、
しかし逆の怠惰も否定する「中道」の道にたどり着き、
静かに坐して瞑想することで悟りに到達した…
というのは有名なお話。

「山林学派」は、それを踏襲したという訳です。

ただ、山林学派の禅も、時代を追うにつれて進化していきます。

「進化」という言葉を使いましたが、
もっと突っ込んだ言い方をすれば
「濃厚に中国的なものを吸収していった」ということです。

仏教に限らず、インド思想全体に共通して言えることなのですが、
本来それらの思想は非常に抽象的なものだったといわれています。

つまり、「漫然と自分の深層心理を探る」という方法ではなく
「言葉」を使って、あるいはその言葉によって
一度既成概念を破壊することで、
真理に近づこうという手法を用いるようになります。

これが、臨済宗系の禅で言うところの「公案」と呼ばれるものです。

私たちには「禅問答」という言葉のほうがピンと来るかもしれません。

中国は「言葉」を文化における中核とみなしていた背景があります。

唐の時代には詩の名作を作り上げるだけの文化が
あったわけですから、その「言葉」を瞑想に
有効に取り入れようとしたのは当然の成り行きといえるでしょう。

更に時代が下り、その「言葉による内面への到達」という方法を
ひっくり返したものが、曹洞宗系の禅、「只管打座」です。

こちらは、逆に徹底的に空白になっていくことを目指した禅。

徹底的に頭を空っぽにして、空白にすることで見えてくる
「真理」にたどり着こうとする手法です。

どちらにも共通して言えることは
「俗に【真理】と呼ばれるものは、実は自分の心の中にあるのだ」
という考え方です。

「座禅」では、それらを導き出すことをひとつの目的にします。

まさに「他に頼るものの何もなくなった」
山林学派の僧たちが生み出すに相応しい考え方だと思います。

私が9月に行うのは言わずもがな「只管打座」
余念を交えずただひたすらに座禅すること。

普通、座禅初心者は線香の燃えきるまで集中力が持たないようですが、
どこまで空っぽになれるか、試してきます。

無になって新たな自分を手に入れられますように!

 

Takayo Mano

 

Related Posts